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2007年11月10日
解説
掲載しているお話は高崎を中心にしています。
また、数多くの情報の中から抜粋しています。ほとんど書き写したといっていいくらいです。
著作権侵害だ!って怒られちゃったらどうしよう…。ちょっと不安です。
高崎は中世の和田氏の時代から鎌倉街道にそう和田宿としておこり、その後は中山道、日光例幣街道、三国街道が交差する交通の要衝として栄えたようです。
旧和田城が徳川家康の命によって大々的に改築させられたとき、鷹を放って城地を定めたことから「鷹ヶ崎城」の名がおこり、これが転じて”高崎”になったとも、竜広寺の白庵和尚が城主井伊直政から相談された際、「成功高大」の意をとって”高崎”とするよう進言したのがその由来だとか。さだかではないようです。
「佐野の舟橋」は逆に万葉のいにしえにさかのぼる悲恋物語。家どうしの対立から仲を裂かれたふたりの悲劇は、日本版ロミオとジュリエットですが、舟橋のあとは木橋になって、高崎市佐野町に残っています。
さて、色んな話を見ると似た話や同じような話がたくさんあります。
あそこの部分がこうだったり、この場面ではああだったり。きっと色んな説があるんですね。
楽しんで読んでいただけたらと思います。
また、数多くの情報の中から抜粋しています。ほとんど書き写したといっていいくらいです。
著作権侵害だ!って怒られちゃったらどうしよう…。ちょっと不安です。
高崎は中世の和田氏の時代から鎌倉街道にそう和田宿としておこり、その後は中山道、日光例幣街道、三国街道が交差する交通の要衝として栄えたようです。
旧和田城が徳川家康の命によって大々的に改築させられたとき、鷹を放って城地を定めたことから「鷹ヶ崎城」の名がおこり、これが転じて”高崎”になったとも、竜広寺の白庵和尚が城主井伊直政から相談された際、「成功高大」の意をとって”高崎”とするよう進言したのがその由来だとか。さだかではないようです。
「佐野の舟橋」は逆に万葉のいにしえにさかのぼる悲恋物語。家どうしの対立から仲を裂かれたふたりの悲劇は、日本版ロミオとジュリエットですが、舟橋のあとは木橋になって、高崎市佐野町に残っています。
さて、色んな話を見ると似た話や同じような話がたくさんあります。
あそこの部分がこうだったり、この場面ではああだったり。きっと色んな説があるんですね。
楽しんで読んでいただけたらと思います。
2007年11月10日
佐野の舟橋
はるかむかし。
烏川をはさんで東の佐野に朝日長者。西の片岡に夕日長者と呼ばれる長者がおりました。
ふたりの長者は、たがいに力を競いあっており、すきあらば相手を滅ぼさんと狙っていました。その朝日長者には、おなみという美しい娘が、夕日長者には小次郎というりりしい若者がいました。
ある夏の夕暮れのこと。
烏川にかかる舟橋のたもとで、おなみが侍女と月見草をつんでおりますと、そこへ小次郎が馬で通りかかりました。
おなみををひとめ見た小次郎は
その美しさに心を奪われ、おなみもまた小次郎の若衆ぶりに、ほほをそめました。
次の日からふたりは、月見草のひらく夕べになると、橋のたもとで忍びあうようになりました。
しかしそのおう瀬はいつまでもかくしとおせるわけもなく、間もなく長者たちの知ることとなりました。
「朝日長者の娘などに会うことはならん。」
「夕日長者の小せがれに娘はやれん。」
長者たちの怒りはすさまじく二度と会わないようにと、おなみも小次郎もそれぞれの屋敷に閉じ込められてしまいました。ふたりの思いはつのるばかりでした。
ある夜、必死の思いで屋敷を抜け出したおなみは、烏川の舟橋を小次郎のいる館をめざして走りました。
ちょうどなつかしい舟橋の中ほどまできた時です。
突然おなみの姿が、
アァーッ、
やみをきり裂く悲鳴とともに、流れの中に消えました。
ふたりが会えんようにと、長者たちが使用人にいいつけて、橋板を何枚かはずさせておいたのです。
そこへ、おなみ会いたさにひそかに屋敷を抜け出した小次郎がやってきました。
橋のたもとでおなみの悲鳴を聞いた小次郎は、声のした方へ夢中でかけました。
そしてはずされている橋板に気がつきました。
おなみっ、おなみぃーっ
足元のやみに向かって小次郎は力のかぎりに呼びました。
しかしかえってくるのは、どうどと流れる、水の音だけでした。
おなみの死をさとった小次郎はおなみの後を追って、はげしい流れに身を沈めました。
人々は、二人の死をたいそうあわれみ、
かみつけの佐野の舟橋とりはなし
親は紗暮れ度、あ(吾)はさかるがえ ・・・良翁
などと歌に詠んだり、橋のたもとに観音像をたてたりして、末永く供養しました。
烏川をはさんで東の佐野に朝日長者。西の片岡に夕日長者と呼ばれる長者がおりました。
ふたりの長者は、たがいに力を競いあっており、すきあらば相手を滅ぼさんと狙っていました。その朝日長者には、おなみという美しい娘が、夕日長者には小次郎というりりしい若者がいました。
ある夏の夕暮れのこと。
烏川にかかる舟橋のたもとで、おなみが侍女と月見草をつんでおりますと、そこへ小次郎が馬で通りかかりました。
おなみををひとめ見た小次郎は
その美しさに心を奪われ、おなみもまた小次郎の若衆ぶりに、ほほをそめました。
次の日からふたりは、月見草のひらく夕べになると、橋のたもとで忍びあうようになりました。
しかしそのおう瀬はいつまでもかくしとおせるわけもなく、間もなく長者たちの知ることとなりました。
「朝日長者の娘などに会うことはならん。」
「夕日長者の小せがれに娘はやれん。」
長者たちの怒りはすさまじく二度と会わないようにと、おなみも小次郎もそれぞれの屋敷に閉じ込められてしまいました。ふたりの思いはつのるばかりでした。
ある夜、必死の思いで屋敷を抜け出したおなみは、烏川の舟橋を小次郎のいる館をめざして走りました。
ちょうどなつかしい舟橋の中ほどまできた時です。
突然おなみの姿が、
アァーッ、
やみをきり裂く悲鳴とともに、流れの中に消えました。
ふたりが会えんようにと、長者たちが使用人にいいつけて、橋板を何枚かはずさせておいたのです。
そこへ、おなみ会いたさにひそかに屋敷を抜け出した小次郎がやってきました。
橋のたもとでおなみの悲鳴を聞いた小次郎は、声のした方へ夢中でかけました。
そしてはずされている橋板に気がつきました。
おなみっ、おなみぃーっ
足元のやみに向かって小次郎は力のかぎりに呼びました。
しかしかえってくるのは、どうどと流れる、水の音だけでした。
おなみの死をさとった小次郎はおなみの後を追って、はげしい流れに身を沈めました。
人々は、二人の死をたいそうあわれみ、
かみつけの佐野の舟橋とりはなし
親は紗暮れ度、あ(吾)はさかるがえ ・・・良翁
などと歌に詠んだり、橋のたもとに観音像をたてたりして、末永く供養しました。